盛岡藩の基礎を作った南部信直の「堅実」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第65回
■信直による「堅実」な家中対策
信直は南部宗家の正統な継承者であることを内外に示すため、前田利家を通じて豊臣政権との交流を始めます。しかし、その後も家督継承に不満を持つ九戸政実は変わらず不穏な態度を示し続けました。
また、為信に奪われた津軽地方を奪回する大義名分を得るために、豊臣政権との交流を強め、津軽地方を含めた朱印状の獲得を模索していきます。
ただし、豪族の連合体のままであった南部家において、秀吉の謁見を得ると、主従関係が確定されてしまうため、強い反発も予想されました。
信直は、一門衆で側近ともいえる八戸政栄(はちのへまさよし)に対しても、あらかじめ断りを入れた上で、政栄の嫡子を同行させるなど、かなり丁寧に対応しています。加えて、九戸政実への抑えの処置などに時間がかかったこともあり、重要な小田原征伐への参陣において、仇敵の為信に先を越されてしまいます。
3日先んじて、為信に朱印状を獲得されてしまい、津軽地方を放棄することになりました。その一方で、岩手郡や志和郡、和賀郡など7郡の本領安堵を得て、公式に諸侯として認められています。
■「堅実」な方法で、九戸政実を討伐
小田原征伐が終わり、豊臣政権によって奥州仕置が行われると、改易された葛西家、大崎家が中心となった大規模な一揆が起こります。
また、それに呼応するかのように和賀郡や稗貫郡(ひえぬきぐん)でも一揆が起こります。信直は自ら軍勢を率いて、鳥谷ヶ崎城で籠城していた豊臣政権の代官を救出しています。そして、積雪によって身動きできなくなる事を警戒し、一旦、城を放棄して南部領まで撤退するなど、確実性の高い方を選択する「堅実」さを見せています。
この混乱の中で、ついに九戸政実も反乱を起こし、南部領内へも一揆が拡大していきます。
信直は自軍だけでの対応を早々に諦めると、嫡子利直と重臣北信愛を秀吉の元に派遣して、豊臣政権の救援を求めます。そして、豊臣秀次を総大将に、徳川家康や上杉景勝など歴戦の武将を加えた豊臣軍の支援を受けることに成功します。
信直は無理な対応を避けて、中央政権の強大な軍事力を利用できたことで、長年の懸案であった九戸家の排除を成功させています。
こうして、「堅実」に南部家の権力基盤を強化できたことにより、幕末まで続く盛岡藩の基礎を作り上げることに成功しました。
■目立たないため評価されにくい「堅実」さ
信直は、伊達政宗や津軽為信のような派手な活躍は記録として残されていませんが、「堅実」な方策を選択して、南部藩の基礎を固めた有能な戦国武将です。
支配領域の大きさの割に地味なイメージが拭えないのは、他の戦国武将のような華々しい逸話が少ないのが原因かと思われます。
現代でも、組織の中で派手に活動する人物の評価は高くなりがちで、「堅実」に取り組んでいる人間の評価は、相対的に低くなりがちな傾向にあると感じます。
ちなみに、文禄の役の際に名護屋城で前田利家を前にして、為信が先陣をきって発言をしたものの、逆に利家の家臣にやり込まれたという逸話があります。それを見た信直は、因縁がある為信の失態を喜ぶのでもなく、自分も失敗しないようにと警戒を強めたという「堅実」な性格を表すエピソードが残されています。
- 1
- 2